公共民俗学研究会第4回ワークショップ・東文研セミナー:「『公共民俗学』というアリーナ―アメリカ民俗学の社会実験」 ― 2011年06月25日

下記のとおり、公共民俗学研究会第4回ワークショップおよび東文研セミナーを開催いたします。事前申し込みは不要ですので、ふるってご参加ください。
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タイトル:「『公共民俗学』というアリーナ―アメリカ民俗学の社会実験」
○日時:2011年6月25日(土)13:00~
○場所:東京大学東洋文化研究所大会議室(3階)
○趣旨:民俗学は今日どのような学問領域であるべきか、社会でどのような役割を果たすべきか?民俗学において、こうした問いは領域の存在意義に関わり、個々の民俗学者が、常に自らに問いつつづけていかなければならない重要な論点である。私たちは、「公共民俗学」とは何なのか自らの答えを探っていく過程から、その問いに多くの示唆を得るはずである。
ただ、「公共民俗学」を概念化し、民俗学の領域内、あるいは領域を越えて明確なメッセージを提言していこうとするならば、私たちに強く求められるのは、まず民俗学を国際的な視野においてとらえ直し、再考していくことである。それは日本の「民俗」が、すでにユネスコの無形文化遺産保護条約というグローバルな枠組みに織り込まれていることからも明らかである。
「公共民俗学(パブリック-フォークロア)」はもともとアメリカで発展してきた概念であり、現代のアメリカ民俗学を特徴付ける一つの重要な研究動向を成してきた。したがって、今回の研究会では、あらためてアメリカ民俗学における「公共民俗学」の研究と実践を考察し、日本あるいはグローバル社会において、公共民俗学を論じ、実行していくことの意義や可能性について考えていく(文責:小長谷英代)。
○スケジュール:
13:00~13:15:菅豊(東京大学)
「アメリカにおける民俗学の再定置―趣旨説明をかねて―」
13:15~14:15:小長谷英代(長崎県立大学)
「アメリカ民俗学者の位置性―理論、実践、ポリティクス―」
かつて学問領域は外部との間に厳密な境界を設定することを前提し、研究者は象牙の塔に身を置くことによって、その権威を守り、維持してきた。こうした想定の下、アメリカの民俗学は20世紀後半、社会との距離を隔てることによって、大学の学部や専攻として確立し、制度化を強めてきた。その一方で、後に「公共民俗学」と呼ばれる動きを先駆けていく民俗学者たちは、意図的に「民俗」の表象を現実社会の諸問題に対する取組や解決策の中に捉えてきた。
学問をとりまく状況が極めて多様化、流動化する今日、アメリカ民俗学が領域の新たなあり方を求めている中で、公共民俗学は社会における新たな民俗学の方向性や可能性を論じるフィールドとしてその存在感を強めつつある。しかし、民俗学の批判的、内省的議論は、「民俗」という名のもと、「他者」とその文化を表象あるいは擁護する行為に、権力、権威、差異のポリティクスが内在することを明らかにしてきた。こうした問題を十分に自覚しつつ、民俗学は「公共民俗学」を再定義し、領域と社会の関係性を再構築する必要がある。それは必ずしも確固たる答えが得られる試みではないとしても、本発表では、アメリカ民俗学の研究と実践が、歴史的、政治的にどのような意味を持ってきたのか、公共民俗学の軌跡に焦点を置きながら、民俗学者の位置性について考察していく。
14:15~14:30:質疑応答
***休憩***
14:45~15:45:橋本裕之(盛岡大学)
「アメリカ民俗学におけるパブリック・フォークロアの実践-主体・経験・ジャンル-」
私は2001年に刊行された『日本民俗学』第227号の研究動向に関する特集号において、「狭められた二元論―民俗行政と民俗研究―」という論文を発表した。これはバーバラ・カーシェンブラット-ギンブレット(以下、BKGという略称を使用する)の論文「誤りの二元論」を念頭に置きながら命名したものであったが、紙幅が限られていたため、アメリカ民俗学に関する部分を削除した。その概要のみを紹介しておきたい。
BKGは「応用民俗学を知的というよりも実用的なものとして扱うことによって、民俗学はそれを無意識のうちに矮小化してきた」ことを指摘した上で、「パブリック・セクターの仕事は、文化をまつり上げるのだが、それは、まつり上げられるものも変化させる」からこそ、「アカデミックな民俗学が応用民俗学に対して成しうる重要な役割がある」という。だが、その役割が「パブリック・セクターそのものと、また、特定のプロジェクトや活動がそれに関わった人々に与える影響をエスノグラフィックに研究してみること」に集約されるとしたら、問題は純粋な民俗学という学術的な地平に回収されてしまう。応用民俗学は民俗学の歴史性や政治性を浮かびあがらせる恰好の手がかりとして、純粋な民俗学に奉仕するためにのみ存在しているわけでもないだろう。かくして、BKGの論文は大きな論争をまきおこした。ロバート・バロンやニック・スピッツァーに代表される数多くの民俗学者が個々の場所に立脚した成果を発表しており、「民俗行政は何のため、そして誰のために存在しているのだろうか」という問いかけを少なからず発見することができる。
今回の発表は10年前に提示したかった視座を再確認しながら、アメリカ民俗学に深くかかわるパフォーマンス・スタディーズの成果も視野に収めた上で、アメリカ民俗学におけるパブリック・フォークロアの実践を主題化する。とりわけ主体・経験・ジャンルに関して、自分じしんの体験にも言及しながら論じてみたい。
15:45~16:00:質疑応答
***休憩***
16:10~16:30:菅豊(東京大学)
「コメント」
16:30~:討論
○主催/共催
公共民俗学研究会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、科研基盤(B)「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」
○問い合わせ先:菅豊:http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/faculty/index.htmlに菅のメールアドレスが記載されています。
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タイトル:「『公共民俗学』というアリーナ―アメリカ民俗学の社会実験」
○日時:2011年6月25日(土)13:00~
○場所:東京大学東洋文化研究所大会議室(3階)
○趣旨:民俗学は今日どのような学問領域であるべきか、社会でどのような役割を果たすべきか?民俗学において、こうした問いは領域の存在意義に関わり、個々の民俗学者が、常に自らに問いつつづけていかなければならない重要な論点である。私たちは、「公共民俗学」とは何なのか自らの答えを探っていく過程から、その問いに多くの示唆を得るはずである。
ただ、「公共民俗学」を概念化し、民俗学の領域内、あるいは領域を越えて明確なメッセージを提言していこうとするならば、私たちに強く求められるのは、まず民俗学を国際的な視野においてとらえ直し、再考していくことである。それは日本の「民俗」が、すでにユネスコの無形文化遺産保護条約というグローバルな枠組みに織り込まれていることからも明らかである。
「公共民俗学(パブリック-フォークロア)」はもともとアメリカで発展してきた概念であり、現代のアメリカ民俗学を特徴付ける一つの重要な研究動向を成してきた。したがって、今回の研究会では、あらためてアメリカ民俗学における「公共民俗学」の研究と実践を考察し、日本あるいはグローバル社会において、公共民俗学を論じ、実行していくことの意義や可能性について考えていく(文責:小長谷英代)。
○スケジュール:
13:00~13:15:菅豊(東京大学)
「アメリカにおける民俗学の再定置―趣旨説明をかねて―」
13:15~14:15:小長谷英代(長崎県立大学)
「アメリカ民俗学者の位置性―理論、実践、ポリティクス―」
かつて学問領域は外部との間に厳密な境界を設定することを前提し、研究者は象牙の塔に身を置くことによって、その権威を守り、維持してきた。こうした想定の下、アメリカの民俗学は20世紀後半、社会との距離を隔てることによって、大学の学部や専攻として確立し、制度化を強めてきた。その一方で、後に「公共民俗学」と呼ばれる動きを先駆けていく民俗学者たちは、意図的に「民俗」の表象を現実社会の諸問題に対する取組や解決策の中に捉えてきた。
学問をとりまく状況が極めて多様化、流動化する今日、アメリカ民俗学が領域の新たなあり方を求めている中で、公共民俗学は社会における新たな民俗学の方向性や可能性を論じるフィールドとしてその存在感を強めつつある。しかし、民俗学の批判的、内省的議論は、「民俗」という名のもと、「他者」とその文化を表象あるいは擁護する行為に、権力、権威、差異のポリティクスが内在することを明らかにしてきた。こうした問題を十分に自覚しつつ、民俗学は「公共民俗学」を再定義し、領域と社会の関係性を再構築する必要がある。それは必ずしも確固たる答えが得られる試みではないとしても、本発表では、アメリカ民俗学の研究と実践が、歴史的、政治的にどのような意味を持ってきたのか、公共民俗学の軌跡に焦点を置きながら、民俗学者の位置性について考察していく。
14:15~14:30:質疑応答
***休憩***
14:45~15:45:橋本裕之(盛岡大学)
「アメリカ民俗学におけるパブリック・フォークロアの実践-主体・経験・ジャンル-」
私は2001年に刊行された『日本民俗学』第227号の研究動向に関する特集号において、「狭められた二元論―民俗行政と民俗研究―」という論文を発表した。これはバーバラ・カーシェンブラット-ギンブレット(以下、BKGという略称を使用する)の論文「誤りの二元論」を念頭に置きながら命名したものであったが、紙幅が限られていたため、アメリカ民俗学に関する部分を削除した。その概要のみを紹介しておきたい。
BKGは「応用民俗学を知的というよりも実用的なものとして扱うことによって、民俗学はそれを無意識のうちに矮小化してきた」ことを指摘した上で、「パブリック・セクターの仕事は、文化をまつり上げるのだが、それは、まつり上げられるものも変化させる」からこそ、「アカデミックな民俗学が応用民俗学に対して成しうる重要な役割がある」という。だが、その役割が「パブリック・セクターそのものと、また、特定のプロジェクトや活動がそれに関わった人々に与える影響をエスノグラフィックに研究してみること」に集約されるとしたら、問題は純粋な民俗学という学術的な地平に回収されてしまう。応用民俗学は民俗学の歴史性や政治性を浮かびあがらせる恰好の手がかりとして、純粋な民俗学に奉仕するためにのみ存在しているわけでもないだろう。かくして、BKGの論文は大きな論争をまきおこした。ロバート・バロンやニック・スピッツァーに代表される数多くの民俗学者が個々の場所に立脚した成果を発表しており、「民俗行政は何のため、そして誰のために存在しているのだろうか」という問いかけを少なからず発見することができる。
今回の発表は10年前に提示したかった視座を再確認しながら、アメリカ民俗学に深くかかわるパフォーマンス・スタディーズの成果も視野に収めた上で、アメリカ民俗学におけるパブリック・フォークロアの実践を主題化する。とりわけ主体・経験・ジャンルに関して、自分じしんの体験にも言及しながら論じてみたい。
15:45~16:00:質疑応答
***休憩***
16:10~16:30:菅豊(東京大学)
「コメント」
16:30~:討論
○主催/共催
公共民俗学研究会、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、科研基盤(B)「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」
○問い合わせ先:菅豊:http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/faculty/index.htmlに菅のメールアドレスが記載されています。
朝日新聞でインタビュー記事が掲載されました:「住民主体で管理する工夫を」 ― 2010年09月25日
朝日新聞2010年9月25日朝刊「オピニオン耕論」で、私のインタビュー記事が掲載されました。
川崎市の多摩川で起こっている河川敷でのバーベキュー問題。バーベキュー愛好者たちの、野放図な利用。それにともなうゴミ問題。地域住民の苦情と、それへの市の対応。フリーライダーでゴミを捨てていく、バーベキュー愛好者たちに、受益者負担してもらう。川崎市は、「包括占用許可制度」により、河川敷を占有し、有料でバーベキューをやる人びとへ提供するという社会実験をはじめました。賛成か反対か意見を求められました。
この状況は、「コモンズの悲劇」ならぬ「オープン・アクセスの悲劇」。ギャレット・ハーディンがコモンズの悲劇と勘違いしたシチュエーションに類します。フリーライダー(ただ乗り)問題を解決するためには、ルールの設定と、その実行可能性の強化、モニタリング、資源と関与者の境界性…などなど乗り越えなければならない問題はありますが、川崎市の社会実験はひとつの方策ではあるでしょう。
さて、私のインタビュー記事は、新聞記事で字数制約があるため、若干舌足らずになってしまいました…。
インタビューアーには、私は相異なる二つの見方が成り立つことを示しました。一つが地域コミュニティ論から見たあり方。もうひとつに、都市社会の空間論から見たあり方。前者が主として記事になったのですが、後者はあまり触れられませんでした。
後者の意見も重要なので、ここで紹介しておきます。
後者の場合、京都の四条河原などと同じく、都市のなかにおいて河川敷が、古くは弱者や差別される人びとを吸収していた。また、市や見せ物小屋、芝居小屋などが立つなど一種の祝祭空間だった。税の付加もなく一種の無縁、アジール空間だった。そのような空間的感覚が未だ都市部の河川敷に残っている。だから、隅田川や多摩川などの都市部の川にはホームレスが集まる。そういう、現代社会で僅かに残された隙間を、埋めていくことが、正しい(公正あるいは正義)のか?環境的正義に反するのではないか?あるいはその方策は可能なのか?今回のような囲い込み=排除の管理方策は問題であるのではないか?、という意見です。
多摩川の川崎市側を都市的空間としてとらえるか、コミュニティ空間としてとらえるかで異なってきますが、今回の動きは公物としての「川」の川崎市によるエンクロジャーとしか受けとめられない。包括占用許可制度は、地域に即した活発な利用を促進するものですが、一方で本来自由であるはずの空間が、地域社会によって排他的に囲い込まれてしまうという弊害を見せつけられました。
この排他性(excludability)の問題は、コモンズ論の「キホンのキ」ですが、ほんとうに厄介な問題です。
川崎市民は、騒音や臭い問題、そしてゴミ問題で困っている。その困っている市民は、管理を市という行政に要求し、市はどうにか対応しようとしている。管理権能は国交省にあるのだから、すり合わせる必要があり、その苦肉の策が今回のものといえるでしょう。
市民の訴えや、それに対する行政の対応は、十分に理解できます。
しかし、市民の訴えや要求の背後に、川をアプリオリに自分たちのものとする思考や、そこから他者を排除して良いとする単純な思考が感じとられます…そのかすかな排除の臭いに、私は違和感を感じてしまいます。
このバーベキュー問題の背後には、重要な問題が横たわっています。
都市住民の権利意識、そして、そこから生まれる短絡的な排除意識の形成にこそ、私たちは今回の事件から気がつかなければならないのです。
よそから来る多様な存在。そこに寄り来る多様な理由。
川崎市民が、そのいくつもの存在と、いくつもの理由を、十把一絡げにまとめ上げ、「排除すべき対象」として見つめている。そして、その排除する権利が自らにあるとアプリオリに信じている…
自らの川に対するアクセスの正統性を疑わない…そこが怖いところなのです。
実は、川崎市の多摩川には、「外来者」に関し、もうひとつ、構図が異なる大きな問題があります。
それは、よそから来た「ホームレス」の問題です。
川崎市は、「多摩川の持つ歴史・文化的資源や環境資源を活かしつつ、多摩川の利活用を総体的にとらえ、より総合的な施策展開」をめざす「川崎市多摩川プラン」を2007年に策定しました。これは、市民協働による多摩川ライフの創造を基本理念に掲げ、市民・企業・行政がそれぞれの役割と責任を果たしながら協働して取り組む、先進的な河川施策の試みです。そこで、市民の意見を汲み取るパブリックコメントが集められました。
その内容は「市民意見の内容と意見に対する回答(要旨)」として、公開されています。
http://www.city.kawasaki.jp/30/30tamasu/home/tamagawa/pubcomme_youshi.pdf
以下、そのパブコメを、ちょっと見てみましょう。
そこには、当然下記のようなバーベキュー問題への意見が出ています。類似する意見が4件見られました。
「二子橋周辺バーベキュー問題は、利用者のマナーが伴わない現状では、どのような対応を考えても絶対に改善されない。快適な河川空間創出のため、バーベキューを禁止すべき。」
今回の市の社会実験は、こういう「市民」の声に後押しされて試みられたものでしょう。
しかし、さらにそのパブリックコメントを良くみてほしい。
よく見ると、ホームレス問題が、バーベキュー問題より多い、13件も訴えられている。その一部を見ると…
「河川敷は、市民の税金で整備・管理されているので、市はホームレスの不法占拠を認めてはならない。」
「青少年の健全な育成のためにも、ホームレスの不法占拠を黙認しないで欲しい。」
「東急東横線橋脚付近の緑地公園に住むホームレスとテント小屋を撤去して、子どもたちを安心して遊ばせたい。」
「基本目標別施策の方向性「ホームレス問題への対応」について、不法占拠者の自立支援よりも、地域住民の住環境改善を優先してほしい。」
「「ホームレスになることを余儀なくされた者もおり」という表現は偏っている。「公共の場を不法占拠しているホームレスがおり」と文言を訂正すべき。」
「捨て犬・捨て猫にホームレスが餌をやり、生態系に悪影響を与えているとあるが、市民が捨てた犬猫もいるが、市民の責任だと断じ責任を自覚すべきという表現は訂正して欲しい。ホームレスの不法占拠を解決すれば起こらない問題では?」
「公共の場を不法占拠しているホームレスの問題を解決して欲しい。」
「「ホームレスとなることを余儀なくされた者」という表現を、「国民の税金で整備された公共の土地を不法に占拠している法令違反者であるホームレス」に変更して欲しい。」
…このような意見が出ることは、感覚的には理解できるとしても、市民のホームレスに対する強烈な攻撃性には驚かされます。
このようなざらついた意見を、いとも簡単に、平気で、当然のことのように声高に述べ立てることのできる「市民」の意識、あるいは公共意識を、私は素直に受け容れられないのです。
そこに、「未熟な市民意識」「未熟な公共意識」を見出してしまうのは私だけでしょうか?????
もちろん、バーベキュー問題とホームレス問題の改善を求める市民が同一とは限らないし、今後、同じ方策がとられるとも考えていません(まさか…いくらなんでも無理でしょう)。また、川崎「市民」も多様で、様々な意見があることも承知しています。
しかし、構図からいうと、バーベキュー問題の排除のやり方、そして今回、編み出されたその解決法の力は、今後ホームレスに向けられる可能性がある。
今回の方策が、短絡的にホームレス問題に敷衍される、あるいは「市民」がそうして良いと主張する危険性をもっているのです。ホームレス排除の単純な回路を作りあげることになりかねない。
そのような怖さを、今回、インタビューを受けながら感じたのです。
「包括占用許可制度」は、地域の要望を汲み取りやすい制度です。しかし、地域のみの論理で、人権、社会的正義などを含み込む真の公共性の論理に無理解なまま使われると、新たな問題を引き起こすことになるでしょう。
この制度が、多様な他者を排除するための、ごまかしの方便として利用されないことを祈るばかりです。
川崎市の多摩川で起こっている河川敷でのバーベキュー問題。バーベキュー愛好者たちの、野放図な利用。それにともなうゴミ問題。地域住民の苦情と、それへの市の対応。フリーライダーでゴミを捨てていく、バーベキュー愛好者たちに、受益者負担してもらう。川崎市は、「包括占用許可制度」により、河川敷を占有し、有料でバーベキューをやる人びとへ提供するという社会実験をはじめました。賛成か反対か意見を求められました。
この状況は、「コモンズの悲劇」ならぬ「オープン・アクセスの悲劇」。ギャレット・ハーディンがコモンズの悲劇と勘違いしたシチュエーションに類します。フリーライダー(ただ乗り)問題を解決するためには、ルールの設定と、その実行可能性の強化、モニタリング、資源と関与者の境界性…などなど乗り越えなければならない問題はありますが、川崎市の社会実験はひとつの方策ではあるでしょう。
さて、私のインタビュー記事は、新聞記事で字数制約があるため、若干舌足らずになってしまいました…。
インタビューアーには、私は相異なる二つの見方が成り立つことを示しました。一つが地域コミュニティ論から見たあり方。もうひとつに、都市社会の空間論から見たあり方。前者が主として記事になったのですが、後者はあまり触れられませんでした。
後者の意見も重要なので、ここで紹介しておきます。
後者の場合、京都の四条河原などと同じく、都市のなかにおいて河川敷が、古くは弱者や差別される人びとを吸収していた。また、市や見せ物小屋、芝居小屋などが立つなど一種の祝祭空間だった。税の付加もなく一種の無縁、アジール空間だった。そのような空間的感覚が未だ都市部の河川敷に残っている。だから、隅田川や多摩川などの都市部の川にはホームレスが集まる。そういう、現代社会で僅かに残された隙間を、埋めていくことが、正しい(公正あるいは正義)のか?環境的正義に反するのではないか?あるいはその方策は可能なのか?今回のような囲い込み=排除の管理方策は問題であるのではないか?、という意見です。
多摩川の川崎市側を都市的空間としてとらえるか、コミュニティ空間としてとらえるかで異なってきますが、今回の動きは公物としての「川」の川崎市によるエンクロジャーとしか受けとめられない。包括占用許可制度は、地域に即した活発な利用を促進するものですが、一方で本来自由であるはずの空間が、地域社会によって排他的に囲い込まれてしまうという弊害を見せつけられました。
この排他性(excludability)の問題は、コモンズ論の「キホンのキ」ですが、ほんとうに厄介な問題です。
川崎市民は、騒音や臭い問題、そしてゴミ問題で困っている。その困っている市民は、管理を市という行政に要求し、市はどうにか対応しようとしている。管理権能は国交省にあるのだから、すり合わせる必要があり、その苦肉の策が今回のものといえるでしょう。
市民の訴えや、それに対する行政の対応は、十分に理解できます。
しかし、市民の訴えや要求の背後に、川をアプリオリに自分たちのものとする思考や、そこから他者を排除して良いとする単純な思考が感じとられます…そのかすかな排除の臭いに、私は違和感を感じてしまいます。
このバーベキュー問題の背後には、重要な問題が横たわっています。
都市住民の権利意識、そして、そこから生まれる短絡的な排除意識の形成にこそ、私たちは今回の事件から気がつかなければならないのです。
よそから来る多様な存在。そこに寄り来る多様な理由。
川崎市民が、そのいくつもの存在と、いくつもの理由を、十把一絡げにまとめ上げ、「排除すべき対象」として見つめている。そして、その排除する権利が自らにあるとアプリオリに信じている…
自らの川に対するアクセスの正統性を疑わない…そこが怖いところなのです。
実は、川崎市の多摩川には、「外来者」に関し、もうひとつ、構図が異なる大きな問題があります。
それは、よそから来た「ホームレス」の問題です。
川崎市は、「多摩川の持つ歴史・文化的資源や環境資源を活かしつつ、多摩川の利活用を総体的にとらえ、より総合的な施策展開」をめざす「川崎市多摩川プラン」を2007年に策定しました。これは、市民協働による多摩川ライフの創造を基本理念に掲げ、市民・企業・行政がそれぞれの役割と責任を果たしながら協働して取り組む、先進的な河川施策の試みです。そこで、市民の意見を汲み取るパブリックコメントが集められました。
その内容は「市民意見の内容と意見に対する回答(要旨)」として、公開されています。
http://www.city.kawasaki.jp/30/30tamasu/home/tamagawa/pubcomme_youshi.pdf
以下、そのパブコメを、ちょっと見てみましょう。
そこには、当然下記のようなバーベキュー問題への意見が出ています。類似する意見が4件見られました。
「二子橋周辺バーベキュー問題は、利用者のマナーが伴わない現状では、どのような対応を考えても絶対に改善されない。快適な河川空間創出のため、バーベキューを禁止すべき。」
今回の市の社会実験は、こういう「市民」の声に後押しされて試みられたものでしょう。
しかし、さらにそのパブリックコメントを良くみてほしい。
よく見ると、ホームレス問題が、バーベキュー問題より多い、13件も訴えられている。その一部を見ると…
「河川敷は、市民の税金で整備・管理されているので、市はホームレスの不法占拠を認めてはならない。」
「青少年の健全な育成のためにも、ホームレスの不法占拠を黙認しないで欲しい。」
「東急東横線橋脚付近の緑地公園に住むホームレスとテント小屋を撤去して、子どもたちを安心して遊ばせたい。」
「基本目標別施策の方向性「ホームレス問題への対応」について、不法占拠者の自立支援よりも、地域住民の住環境改善を優先してほしい。」
「「ホームレスになることを余儀なくされた者もおり」という表現は偏っている。「公共の場を不法占拠しているホームレスがおり」と文言を訂正すべき。」
「捨て犬・捨て猫にホームレスが餌をやり、生態系に悪影響を与えているとあるが、市民が捨てた犬猫もいるが、市民の責任だと断じ責任を自覚すべきという表現は訂正して欲しい。ホームレスの不法占拠を解決すれば起こらない問題では?」
「公共の場を不法占拠しているホームレスの問題を解決して欲しい。」
「「ホームレスとなることを余儀なくされた者」という表現を、「国民の税金で整備された公共の土地を不法に占拠している法令違反者であるホームレス」に変更して欲しい。」
…このような意見が出ることは、感覚的には理解できるとしても、市民のホームレスに対する強烈な攻撃性には驚かされます。
このようなざらついた意見を、いとも簡単に、平気で、当然のことのように声高に述べ立てることのできる「市民」の意識、あるいは公共意識を、私は素直に受け容れられないのです。
そこに、「未熟な市民意識」「未熟な公共意識」を見出してしまうのは私だけでしょうか?????
もちろん、バーベキュー問題とホームレス問題の改善を求める市民が同一とは限らないし、今後、同じ方策がとられるとも考えていません(まさか…いくらなんでも無理でしょう)。また、川崎「市民」も多様で、様々な意見があることも承知しています。
しかし、構図からいうと、バーベキュー問題の排除のやり方、そして今回、編み出されたその解決法の力は、今後ホームレスに向けられる可能性がある。
今回の方策が、短絡的にホームレス問題に敷衍される、あるいは「市民」がそうして良いと主張する危険性をもっているのです。ホームレス排除の単純な回路を作りあげることになりかねない。
そのような怖さを、今回、インタビューを受けながら感じたのです。
「包括占用許可制度」は、地域の要望を汲み取りやすい制度です。しかし、地域のみの論理で、人権、社会的正義などを含み込む真の公共性の論理に無理解なまま使われると、新たな問題を引き起こすことになるでしょう。
この制度が、多様な他者を排除するための、ごまかしの方便として利用されないことを祈るばかりです。
アルブレヒト・レーマン来日!!! ― 2010年09月20日
ドイツの著名な民俗学者・アルブレヒト・レーマン氏が、ついに来日します!!!
井の中の蛙大海を知らずである内向的な日本民俗学界に、大きな風穴を空ける一大イベントです。興味ある内容が目白押し!みなさん、お見逃しなく!!!
詳細は下記をご覧ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/fsj/research/international_exchange_symposium2010.html
公開講演会 アルブレヒト・レーマン「神秘化された森と環境保護運動-ドイツの事例より」
[東京会場]
◦日時:2010年9月19日(日) 13:00~16:30(開場13:00)
◦会場:東京大学駒場キャンパス1323教室
[大阪会場]
◦日時:2010年9月25日(土) 13:00~16:30(開場13:00)
◦会場:国立民族学博物館第5セミナー室
井の中の蛙大海を知らずである内向的な日本民俗学界に、大きな風穴を空ける一大イベントです。興味ある内容が目白押し!みなさん、お見逃しなく!!!
詳細は下記をご覧ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/fsj/research/international_exchange_symposium2010.html
公開講演会 アルブレヒト・レーマン「神秘化された森と環境保護運動-ドイツの事例より」
[東京会場]
◦日時:2010年9月19日(日) 13:00~16:30(開場13:00)
◦会場:東京大学駒場キャンパス1323教室
[大阪会場]
◦日時:2010年9月25日(土) 13:00~16:30(開場13:00)
◦会場:国立民族学博物館第5セミナー室

国際シンポジウム「オーラルヒストリーと〈語り〉のアーカイブ化に向けて―文化人類学・社会学・歴史学との対話」
•2010年9月20日(月・祝)13:00-17:40 •場所:成城大学3号館003教室(小田急線「成城学園前」駅下車)
•基調レクチャー:◦アルブレヒト・レーマン(Albrecht Lehmann;ハンブルグ大学)
「意識分析とオーラルヒストリー資料・オーラルナレーションのアーカイブ化」
•デイスカッサント:
◦カリン・ヘッセ(Karin Hesse;ハンブルグ大学) 「日常の語りハンブルグ・アーカイブについて」
◦小林多寿子(一橋大学) 「社会学からのデイスカッション」
◦佐藤仁史(一橋大学)・太田出(兵庫県立大学) 「歴史学からのディスカッション」
•コメンテーター:山田厳子(弘前大学)、原山浩介(国立歴史民俗博物館)
•司会:中野紀和(大東文化大学)・門田岳久(関西学院大学)、コーディネーター:岩本通弥

関西学院大学シンポジウム「〈語り〉研究の最前線―日常・経験・意識をめぐる方法」
•日時:2010年9月26日(日)13:00~16:50
•会場:関西学院大学西宮上ケ原キャンパスG号館301号教室
•主催:関西学院大学人間福祉学部,共催:日本民俗学会
•基調レクチャー:
◦Albrecht Lehmann 「ムードと空気―意識分析のコンテキストにおける記憶とナラティヴに及ぼす影響」
アルブレヒト・レーマン(Albrecht Lehmann)氏
•1939年生まれ。ドイツ・ハンブルグ大学終身教授。レーマン教授は語りや自伝の収集を通じ、戦争引き揚げ者・自然環境・労働者などの主題に取り組んできました。その方法は「日常の語り」の厳密な分析から、「意識」(≒心意)を析出する手法を構築したことで、現代ドイツを代表する民俗学者として知られています。
•主著は、『ある労働者村の生活』(1976)、『語りの構造とライフコース-人生・自伝研究』(1983)、『捕虜生活と帰郷-ソ連のドイツ人戦争捕虜』(1986)、『心ならずも異国を棲家として-1945-1990年西ドイツの難民と故郷追放者』(1991)、『人間と樹木―ドイツ人とその森』(1999)、『経験について話すということ-語りの文化科学的意識分析』(2007)。
このうち『人間と樹木』は、『森のフォークロア-ドイツ人の自然観と森林文化』として邦訳出版されています。
第7回現代民俗学会研究会「無形文化遺産保護運動と中国民俗学」開催のご案内 ― 2010年09月11日
第7回現代民俗学会研究会を下記の通り開催します。奮ってご参加ください。
日時: 2010年9月11日(土)13:00~
タイトル: 「無形文化遺産保護運動と中国民俗学―その可能性と課題―」
会場: 東京大学東洋文化研究所3階大会議室
日時: 2010年9月11日(土)13:00~
タイトル: 「無形文化遺産保護運動と中国民俗学―その可能性と課題―」
会場: 東京大学東洋文化研究所3階大会議室

発表者:
周星(愛知大学教授)
施愛東(中国社会科学院文学研究所副研究員)
コメンテーター: 西村真志葉(インディペンデント・フォークロリスト)
通訳: 彭偉文(神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員)
コーディネーター: 周星、菅豊(東京大学教授)、中野泰(筑波大学講師)
主催/共催: 現代民俗学会、公共民俗学研究会、科研「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」グループ、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会
周星(愛知大学教授)
施愛東(中国社会科学院文学研究所副研究員)
コメンテーター: 西村真志葉(インディペンデント・フォークロリスト)
通訳: 彭偉文(神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員)
コーディネーター: 周星、菅豊(東京大学教授)、中野泰(筑波大学講師)
主催/共催: 現代民俗学会、公共民俗学研究会、科研「市民社会に対応する『公共民俗学』創成のための基礎研究」グループ、東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会
〔趣旨〕
現在、世界の至るところでユネスコが主導する無形文化遺産(中国語:非物質文化遺産)を保護する動きが活発化しています。それは、保護する対象そのものが民俗学の研究課題であるばかりでなく、文化のグローバル・ポリティクスである保護運動までもが、重要な研究課題となっています。そして、その動きは、各国の民俗学の趨勢に大きな影響を与えています。従来、「民俗」という言葉で、その研究対象を文化から切り取ってきた民俗学は、現在、政策的に生まれた「無形文化遺産」という言葉に呑み込まれるとともに、それを一方では利用し、さらに、一方では危機感をもって受けとめています。
今回の研究会では、日本以上に無形文化遺産保護活動が活発化している中国を題材に、その保護運動が中国の社会や民俗学にいかなる影響を与えたのか、気鋭の中国民俗学者に論じていただきます。これまで、日本の民俗学者の一部も、無形文化遺産保護政策に関与してきました。しかし、日本の民俗学は、無形文化遺産保護に関する理論的研究や実態的研究を、いまだ十分に積み重ねていません。また、その学問的影響に関する議論も、十分に積み重ねていません。無形文化遺産保護運動はグローバルな課題であり、その課題に多くの知見をもつ中国民俗学から、私たち日本の民俗学研究者は、まさに「他山の石」として多くのことを学ぶことができるでしょう。そして、中国民俗学の状況を学ぶことによって、日本において公共民俗学の観点から無形文化遺産を問い直す起点を、私たちは見定めることができるでしょう(文責:菅豊)。
〔発表内容〕
周星(愛知大学教授):
「非物質文化遺産の保護運動と文化政策、及び「文化観」の転換―中国における『公共民俗学』の可能性と危険性」
21世紀に入って、中国では馴染みのない「非物質文化遺産」(略称:「非遺」)という言葉が突然「流行語」になった。中国は、改革開放の一環としてユネスコの関連条約に素早く加盟した。政府の「政治主導」による社会動員や、マスコミの喧噪を含めて、非物質文化遺産の保護運動が全国にわたって盛大に繰り広げられている現在、「非物質文化遺産」というカテゴリーと民俗学の研究対象とは、かなり重なっているため、数多くの民俗学者が国の文化遺産行政に巻き込まれている。民俗学者が何をもって国の文化遺産行政に参加しているのか、それは民俗学にとって何を意味しているのか、民俗学が政府の文化事業に関わることによりどんなメリットを得られたのか、何を失ってしまったのか。
本発表では、このような中国社会における民俗学のあり方、存在感及び学問的実践の可能性という、現在まさに問い直さなければならない課題について検討する。さらに、独立した学問としての中国民俗学が、『公共民俗学』という発想・構想をどう受けとめるべきかという問題、また、文化遺産行政に呑み込まれて学問の立場や独立性を喪失するという危惧が現実になりつつある問題についても指摘したい。
施愛東(中国社会科学院文学研究所副研究員):
「中国における非物質文化遺産保護運動の民俗学への負の影響」
中国では、研究者が非物質文化遺産へ関心を示し始めたのは、2002年のことであったが、民俗学者がこの運動に関わるようになったのは、主に2003年からであり、全面的に取り組み始めたのは2005年であった。現在、非物質文化遺産保護運動に携わる研究者の多くは民俗学者である。非物質文化遺産保護運動に参加するのは、民俗学にとって回避できない社会的責任であり、学術的責任であり、また新しいチャンスでもあると、多くの中国民俗学者が考えている。
しかし、民俗学の学科の発展から見ると、このような動きが楽観的な将来をもたらしてくれると思えない。非物質文化遺産保護は、主に行政行為であり、学術研究ではない。そして、学術研究の政治への過度な依存は、往々にして学問の独立性を犠牲にするのである。保護と研究は、違う範疇に属する概念である。民俗学の既存の方法と規範を棄て、保護運動に取り組むことは、必ず今後の民俗学研究の持続的発展に悪影響を与えよう。なぜならば、学科の重心が非物質文化遺産保護に移り、通常の研究が停滞することにより、民俗学の学問として重要性と影響力がさらに弱められるからである。
現代中国民俗学の歴史が示すように、中国には幾度の学術運動があったが、その終息のたびに、民俗学は必ず全体的学問レベルの下落という代償を支払わなければならなかった。それゆえ、非物質文化遺産保護という学術運動が幕を閉じると、中国民俗学は新しい苦境に陥る可能性が窺えよう。
その他 中国語の発表、討論には通訳がつきます。お問い合わせは東京大学東洋文化研究所・菅豊(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/faculty/index.htmlに菅のメールアドレスが記載されています)までお願いいたします。
現在、世界の至るところでユネスコが主導する無形文化遺産(中国語:非物質文化遺産)を保護する動きが活発化しています。それは、保護する対象そのものが民俗学の研究課題であるばかりでなく、文化のグローバル・ポリティクスである保護運動までもが、重要な研究課題となっています。そして、その動きは、各国の民俗学の趨勢に大きな影響を与えています。従来、「民俗」という言葉で、その研究対象を文化から切り取ってきた民俗学は、現在、政策的に生まれた「無形文化遺産」という言葉に呑み込まれるとともに、それを一方では利用し、さらに、一方では危機感をもって受けとめています。
今回の研究会では、日本以上に無形文化遺産保護活動が活発化している中国を題材に、その保護運動が中国の社会や民俗学にいかなる影響を与えたのか、気鋭の中国民俗学者に論じていただきます。これまで、日本の民俗学者の一部も、無形文化遺産保護政策に関与してきました。しかし、日本の民俗学は、無形文化遺産保護に関する理論的研究や実態的研究を、いまだ十分に積み重ねていません。また、その学問的影響に関する議論も、十分に積み重ねていません。無形文化遺産保護運動はグローバルな課題であり、その課題に多くの知見をもつ中国民俗学から、私たち日本の民俗学研究者は、まさに「他山の石」として多くのことを学ぶことができるでしょう。そして、中国民俗学の状況を学ぶことによって、日本において公共民俗学の観点から無形文化遺産を問い直す起点を、私たちは見定めることができるでしょう(文責:菅豊)。
〔発表内容〕
周星(愛知大学教授):
「非物質文化遺産の保護運動と文化政策、及び「文化観」の転換―中国における『公共民俗学』の可能性と危険性」
21世紀に入って、中国では馴染みのない「非物質文化遺産」(略称:「非遺」)という言葉が突然「流行語」になった。中国は、改革開放の一環としてユネスコの関連条約に素早く加盟した。政府の「政治主導」による社会動員や、マスコミの喧噪を含めて、非物質文化遺産の保護運動が全国にわたって盛大に繰り広げられている現在、「非物質文化遺産」というカテゴリーと民俗学の研究対象とは、かなり重なっているため、数多くの民俗学者が国の文化遺産行政に巻き込まれている。民俗学者が何をもって国の文化遺産行政に参加しているのか、それは民俗学にとって何を意味しているのか、民俗学が政府の文化事業に関わることによりどんなメリットを得られたのか、何を失ってしまったのか。
本発表では、このような中国社会における民俗学のあり方、存在感及び学問的実践の可能性という、現在まさに問い直さなければならない課題について検討する。さらに、独立した学問としての中国民俗学が、『公共民俗学』という発想・構想をどう受けとめるべきかという問題、また、文化遺産行政に呑み込まれて学問の立場や独立性を喪失するという危惧が現実になりつつある問題についても指摘したい。
施愛東(中国社会科学院文学研究所副研究員):
「中国における非物質文化遺産保護運動の民俗学への負の影響」
中国では、研究者が非物質文化遺産へ関心を示し始めたのは、2002年のことであったが、民俗学者がこの運動に関わるようになったのは、主に2003年からであり、全面的に取り組み始めたのは2005年であった。現在、非物質文化遺産保護運動に携わる研究者の多くは民俗学者である。非物質文化遺産保護運動に参加するのは、民俗学にとって回避できない社会的責任であり、学術的責任であり、また新しいチャンスでもあると、多くの中国民俗学者が考えている。
しかし、民俗学の学科の発展から見ると、このような動きが楽観的な将来をもたらしてくれると思えない。非物質文化遺産保護は、主に行政行為であり、学術研究ではない。そして、学術研究の政治への過度な依存は、往々にして学問の独立性を犠牲にするのである。保護と研究は、違う範疇に属する概念である。民俗学の既存の方法と規範を棄て、保護運動に取り組むことは、必ず今後の民俗学研究の持続的発展に悪影響を与えよう。なぜならば、学科の重心が非物質文化遺産保護に移り、通常の研究が停滞することにより、民俗学の学問として重要性と影響力がさらに弱められるからである。
現代中国民俗学の歴史が示すように、中国には幾度の学術運動があったが、その終息のたびに、民俗学は必ず全体的学問レベルの下落という代償を支払わなければならなかった。それゆえ、非物質文化遺産保護という学術運動が幕を閉じると、中国民俗学は新しい苦境に陥る可能性が窺えよう。
その他 中国語の発表、討論には通訳がつきます。お問い合わせは東京大学東洋文化研究所・菅豊(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/faculty/index.htmlに菅のメールアドレスが記載されています)までお願いいたします。
論文でました:「現代アメリカ民俗学の現状と課題―公共民俗学(Public Folklore)を中心に―」『日本民俗学』263(日本民俗学会、2010.8.31) ― 2010年08月31日
「現代アメリカ民俗学の現状と課題―公共民俗学(Public Folklore)を中心に―」『日本民俗学』263(日本民俗学会、2010.8.31)pp.94-126を発表しました。
アメリカのパブリック・フォークロア(公共民俗学)のレビュー論文です。
今後、公共民俗学という言葉と、研究方向を、日本民俗学にも定着させることを目指します。
それは、アメリカ民俗学のパブリック・フォークロアと類似するものの、相同ではありません。危機的状況にある日本民俗学の、ひとつの可能性を示すものとして、公共民俗学は重要な意味をもっています。
「現在の新しい「公共民俗学」は、もはや単に公共部門の民俗学だけの問題ではない。それはアカデミック民俗学の問題でもあるのだ。それは、それぞれのミッションを規定している立場性を乗り越え、ともに民俗学を社会に開き、文化を以て何らかの実践を行い、地域社会や人びとの「幸福」を考える民俗学なのである…これからの民俗学では、文化の所有権や表象行為の権威性という困難な問題があることを自覚しながら、あるいは戦略的に企図しながら、自分のフィールドの文化に直接介入し、その文化を客体化し、そして何らかのアドボカシー活動に関与し、さらにそれら総体の自己の行為をリフレキシブ(再帰的、内省的)にとらえ直す方向性が模索されなければならない―もちろんそれが地域の人びとに資する行為であらねばならないことは言を俟たない―。それは日本の民俗学がかつて掲げた本分を取り戻すあり方であるとともに、また、いまの民俗学を現代社会に対応する新しい民俗学へと「転回」するあり方なのである。いまこそ日本の民俗学は、「誤りの二元論」から脱却しなければならない。」(菅 2010:114-115)
アメリカのパブリック・フォークロア(公共民俗学)のレビュー論文です。
今後、公共民俗学という言葉と、研究方向を、日本民俗学にも定着させることを目指します。
それは、アメリカ民俗学のパブリック・フォークロアと類似するものの、相同ではありません。危機的状況にある日本民俗学の、ひとつの可能性を示すものとして、公共民俗学は重要な意味をもっています。
「現在の新しい「公共民俗学」は、もはや単に公共部門の民俗学だけの問題ではない。それはアカデミック民俗学の問題でもあるのだ。それは、それぞれのミッションを規定している立場性を乗り越え、ともに民俗学を社会に開き、文化を以て何らかの実践を行い、地域社会や人びとの「幸福」を考える民俗学なのである…これからの民俗学では、文化の所有権や表象行為の権威性という困難な問題があることを自覚しながら、あるいは戦略的に企図しながら、自分のフィールドの文化に直接介入し、その文化を客体化し、そして何らかのアドボカシー活動に関与し、さらにそれら総体の自己の行為をリフレキシブ(再帰的、内省的)にとらえ直す方向性が模索されなければならない―もちろんそれが地域の人びとに資する行為であらねばならないことは言を俟たない―。それは日本の民俗学がかつて掲げた本分を取り戻すあり方であるとともに、また、いまの民俗学を現代社会に対応する新しい民俗学へと「転回」するあり方なのである。いまこそ日本の民俗学は、「誤りの二元論」から脱却しなければならない。」(菅 2010:114-115)

論文でました:「「水辺」に込められた現代的価値」『琵琶湖周航―映像地理学の旅』(出口正登・出口晶子編、昭和堂、2010.7.15) ― 2010年08月15日
「「水辺」に込められた現代的価値」『琵琶湖周航―映像地理学の旅』(出口正登・出口晶子編、昭和堂、2010.7.15)pp.206-208を発表しました。

シンポジウム発表しました:中国民間文芸家協会主催シンポジウム「中日非物質文化遺産保護論壇」2010.8.9、中国北京 ― 2010年08月09日
中国民間文芸家協会主催シンポジウム「中日非物質文化遺産保護論壇」(北京前門建国飯店、2010.8.9)で、「文化的客体化―浙江省廿八都的観光化帯来的伝統文化的変容―」と題して発表しました。
文化政策や、それにともなう観光化は、地域の文化に大きな影響を与えています。
【発表要旨】
文化の客体化
―浙江省廿八都の観光化による伝統文化の変容―
菅 豊(東京大学東洋文化研究所教授)
「文化の客体化(cultural objectification)」とは、文化を操作可能なものとして扱うことである。この「文化の客体化」の問題は、文化の担い手による客体化と、文化の担い手ではない他者―研究者や行政、企業などの外部アクター―による客体化の二面について論じられてきた。観光化の浸透にともなう伝統文化の変化は、まさにこの二面の客体化が同時進行するなかで起こってきた。
客体化される文化については、超時代的に連綿と伝承されてきたとされる「伝統」文化も当然ながら含まれる。「伝統」文化の場合、その文化が古い過去の文化を継承する「真正」なる文化として価値が見出され、保護されてきた。一方、近代、現代社会における文化の客体化が明確になるにつれて、その「伝統」文化が政治的、経済的に構築され、創造され、「伝統」の真正性が失われてきたことが明らかにされており、そのような状況における他者の客体化は「フォークロリズム」という形で批判されている。また、文化やそれを担う人びとを操作可能なもののよう扱うことは、そのような文化と文化の担い手を「物象化」することであり、外部アクターと、それらによって伝統を表象される地域の人びととの間に不公平な力関係を生み出しているとの批判もなされている〔Baron 2010:63〕。それは表象する力が、「伝統」文化を大規模に構築するアクター―つまり民俗学者や文化保護関係者―の手中にあることに対する批判であり、また、その結果、地域における文化の担い手の主体的実践を限定したり、否定したりすることにつながりかねないという批判でもある。
一方、文化人類学では、この「文化の客体化」という言葉を用いて、文化の担い手が主体的に自文化を操作の対象とし、客体化して新たに生産し直し、その過程で自己のアイデンティティを形成する可能性について研究がなされている(太田 1998)。そこでは、現地の人びとの主体性に関心がもたれ、「伝統」文化の構築と創造過程で、外部のアクターと文化の担い手との相互作用のなかで、「地域アイデンティティ」を生成するという肯定的な評価もなされている(山下 1999)。
本発表で報告する浙江省廿八都でも、古鎮保護と開発にともなう観光化の進展によって、地域の「伝統」文化は客体化されている。そこでは、剪紙などの民間工芸文化、また棕衣などの生活文化、豆腐づくりや郷土料理などの食文化が、ここ数年の観光化によって、地域の住民によって客体化され、変化させられている。その変化は、連綿と続くと思われる「伝統」を改変することではあるが、文化の担い手が主体的に選択した現代社会への適応という側面から見れば、必ずしも否定できるものではない。本発表では、廿八都における「伝統」文化の担い手たちが、観光化に適応する過程と、それによる文化の変化を検討し、文化の客体化の可能性と課題について論じることを目的とする。
中文版
文 化 的 客 体 化
―浙江省廿八都的观光化带来的传统文化的变容―
菅 丰(著)(东京大学东洋文化研究所教授)
陈志勤(译)(上海大学文学院社会学系副教授)
文化政策や、それにともなう観光化は、地域の文化に大きな影響を与えています。
【発表要旨】
文化の客体化
―浙江省廿八都の観光化による伝統文化の変容―
菅 豊(東京大学東洋文化研究所教授)
「文化の客体化(cultural objectification)」とは、文化を操作可能なものとして扱うことである。この「文化の客体化」の問題は、文化の担い手による客体化と、文化の担い手ではない他者―研究者や行政、企業などの外部アクター―による客体化の二面について論じられてきた。観光化の浸透にともなう伝統文化の変化は、まさにこの二面の客体化が同時進行するなかで起こってきた。
客体化される文化については、超時代的に連綿と伝承されてきたとされる「伝統」文化も当然ながら含まれる。「伝統」文化の場合、その文化が古い過去の文化を継承する「真正」なる文化として価値が見出され、保護されてきた。一方、近代、現代社会における文化の客体化が明確になるにつれて、その「伝統」文化が政治的、経済的に構築され、創造され、「伝統」の真正性が失われてきたことが明らかにされており、そのような状況における他者の客体化は「フォークロリズム」という形で批判されている。また、文化やそれを担う人びとを操作可能なもののよう扱うことは、そのような文化と文化の担い手を「物象化」することであり、外部アクターと、それらによって伝統を表象される地域の人びととの間に不公平な力関係を生み出しているとの批判もなされている〔Baron 2010:63〕。それは表象する力が、「伝統」文化を大規模に構築するアクター―つまり民俗学者や文化保護関係者―の手中にあることに対する批判であり、また、その結果、地域における文化の担い手の主体的実践を限定したり、否定したりすることにつながりかねないという批判でもある。
一方、文化人類学では、この「文化の客体化」という言葉を用いて、文化の担い手が主体的に自文化を操作の対象とし、客体化して新たに生産し直し、その過程で自己のアイデンティティを形成する可能性について研究がなされている(太田 1998)。そこでは、現地の人びとの主体性に関心がもたれ、「伝統」文化の構築と創造過程で、外部のアクターと文化の担い手との相互作用のなかで、「地域アイデンティティ」を生成するという肯定的な評価もなされている(山下 1999)。
本発表で報告する浙江省廿八都でも、古鎮保護と開発にともなう観光化の進展によって、地域の「伝統」文化は客体化されている。そこでは、剪紙などの民間工芸文化、また棕衣などの生活文化、豆腐づくりや郷土料理などの食文化が、ここ数年の観光化によって、地域の住民によって客体化され、変化させられている。その変化は、連綿と続くと思われる「伝統」を改変することではあるが、文化の担い手が主体的に選択した現代社会への適応という側面から見れば、必ずしも否定できるものではない。本発表では、廿八都における「伝統」文化の担い手たちが、観光化に適応する過程と、それによる文化の変化を検討し、文化の客体化の可能性と課題について論じることを目的とする。
中文版
文 化 的 客 体 化
―浙江省廿八都的观光化带来的传统文化的变容―
菅 丰(著)(东京大学东洋文化研究所教授)
陈志勤(译)(上海大学文学院社会学系副教授)
所谓“文化的客体化(cultural objectification)”,就是把文化作为可能操作的事物来对待。有关“文化的客体化”的问题,一直以来从两个方面展开研究—根据文化的传承者的客体化、以及根据非文化传承者的他者如研究者和行政机构、企业等的外部行为者的客体化。伴随着观光化的渗透而引起的传统文化的变化,正是这两个方面的客体化在同时进展的过程中而生发出来的。
对于被客体化的文化,被认为是超越时代而连绵不断地传承下来的“传统”文化当然也是包含在内的。在“传统”文化的情况下,这个文化作为继承过去古老文化的“真正”的文化而发现其价值,并被保护下来。而相反的,随着在近代、现代的社会中文化的客体化现象成为明确的事实之后,这个“传统”文化是被政治的、经济的所建构、所创造的,其“传统”的真正性已经丧失的事实也被揭示出来了。在这样的状况中根据他者而引起的文化的客体化,以“民俗主义论”的形式受到批判。同时,有研究者对于把文化以及传承这个文化的人们作为操作可能的事物进行对待的行为提出批评,认为这是把这样的文化以及传承文化的人们进行“物象化”的行为,在外部行为者与因之而被表象为传统的地方上的人们之间将产生不公平的力量关系(Baron2010:63)。这是对于进行表象的力量掌握在把“传统”文化进行大规模建构的外部行为者—也就是民俗学者以及文化保护关系者手中这种现象的批评,同时,也是兼及这种文化操作的结果与限制、否定地方上文化传承者的主体性实践相关的事实的一种批评。
另一方面,在文化人类学领域,采用“文化的客体化”这个术语,对文化的传承者主动积极的把自己的文化作为操作的对象,让这个文化趋向客体化,并进行重新生产重新改变,关于在这个过程中具有形成自我认同的可能性的研究正在开展(太田 1998)。其中,关注于当地的人们的主体性,在“传统”文化的建构与创造的过程中,在外部行为者与文化的传承者的相互作用之间生成“地方认同”这样的肯定性评价的研究也在进行之中(山下 1999)。
即使在本文中举例的浙江省廿八都镇,伴随着古镇保护和开发的观光化的进展,当地的“传统”文化也正在被不断地客体化。在那里,剪纸等民间工艺文化、还有棕衣等生活文化、豆腐制作以及乡土料理等饮食文化,因为这近几年的观光化的影响,由地方上的居民被客体化,发生了诸多的变化。这样的变化,虽然是对被认为是连绵而持续不断的“传统”进行了改变,但可以看到文化传承者积极地选择向现代社会适应的一个侧面,未必是一种可以被否定的事物。本文的目的是探讨廿八都镇的“传统”文化的传承者们,适应于观光化的过程以及由此而生成的文化的变化,并就有关文化的客体化的可能性以及问题性进行论述。
对于被客体化的文化,被认为是超越时代而连绵不断地传承下来的“传统”文化当然也是包含在内的。在“传统”文化的情况下,这个文化作为继承过去古老文化的“真正”的文化而发现其价值,并被保护下来。而相反的,随着在近代、现代的社会中文化的客体化现象成为明确的事实之后,这个“传统”文化是被政治的、经济的所建构、所创造的,其“传统”的真正性已经丧失的事实也被揭示出来了。在这样的状况中根据他者而引起的文化的客体化,以“民俗主义论”的形式受到批判。同时,有研究者对于把文化以及传承这个文化的人们作为操作可能的事物进行对待的行为提出批评,认为这是把这样的文化以及传承文化的人们进行“物象化”的行为,在外部行为者与因之而被表象为传统的地方上的人们之间将产生不公平的力量关系(Baron2010:63)。这是对于进行表象的力量掌握在把“传统”文化进行大规模建构的外部行为者—也就是民俗学者以及文化保护关系者手中这种现象的批评,同时,也是兼及这种文化操作的结果与限制、否定地方上文化传承者的主体性实践相关的事实的一种批评。
另一方面,在文化人类学领域,采用“文化的客体化”这个术语,对文化的传承者主动积极的把自己的文化作为操作的对象,让这个文化趋向客体化,并进行重新生产重新改变,关于在这个过程中具有形成自我认同的可能性的研究正在开展(太田 1998)。其中,关注于当地的人们的主体性,在“传统”文化的建构与创造的过程中,在外部行为者与文化的传承者的相互作用之间生成“地方认同”这样的肯定性评价的研究也在进行之中(山下 1999)。
即使在本文中举例的浙江省廿八都镇,伴随着古镇保护和开发的观光化的进展,当地的“传统”文化也正在被不断地客体化。在那里,剪纸等民间工艺文化、还有棕衣等生活文化、豆腐制作以及乡土料理等饮食文化,因为这近几年的观光化的影响,由地方上的居民被客体化,发生了诸多的变化。这样的变化,虽然是对被认为是连绵而持续不断的“传统”进行了改变,但可以看到文化传承者积极地选择向现代社会适应的一个侧面,未必是一种可以被否定的事物。本文的目的是探讨廿八都镇的“传统”文化的传承者们,适应于观光化的过程以及由此而生成的文化的变化,并就有关文化的客体化的可能性以及问题性进行论述。
論文でました:「非物質文化的創造―以浙江省寧波市象山県的竹根彫為例」『観念與方式―中日非物質文化遺産保護(鄞州)論壇論文集』(王恬主編、中国文聯出版社、2010.7.1) ― 2010年08月01日
菅豊2010「非物質文化的創造―以浙江省寧波市象山県的竹根彫為例」『観念與方式―中日非物質文化遺産保護(鄞州)論壇論文集』(王恬主編、中国文聯出版社、2010.7.1)pp.261-270(中国語)を発表しました。これは、菅豊2010「非物質文化的創造―以浙江省寧波市象山県的竹根彫為題材」『民間文化論壇』2010年第1期(総第200期)(《民間文化論壇》雑誌社、2010.2.10)pp.107-111が転載されたものです。
根芸の論文です。
根芸の論文です。
《討論》福田アジオを乗り越える―私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?―のご案内(2010年7月31日) ― 2010年07月31日
福田アジオ氏をお迎えして、下記の研究会を開催します。エキサイティングな討論の場にしたいと考えております。奮ってご参加ください!!!

《討論》福田アジオを乗り越える―私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?―
日時:2010年7月31日(土)13:30~
場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
登壇者:福田アジオ(神奈川大学外国語学部・教授)
コーディネーター・司会:菅豊(東京大学)、塚原伸治(筑波大学)
〔内容〕
現代民俗学とは「20世紀民俗学―これまでの民俗学」を乗り越える民俗学の流れです。ここでいう「20世紀民俗学」とは、20世紀に柳田国男たちによって始められた日本の土着文化の理解とその復興運動、そして、その学問化を進めた運動を指します。それは、ある時代の要請によって生成した「時代の産物」であり、当初は「野の学問」として出発し、100年近い時間の経過とともに体系化され、組織化され、そして制度化されました。この「20世紀民俗学」の成立の最終段階で、大きな役割を果たした民俗学者の一人に福田アジオ氏がいます。
いま私たちは現代民俗学を唱え、「20世紀民俗学」からの飛躍を試みようとしています。それは、福田氏、および同時代の人びとの学問を乗り越えることでもあります。今回、現代民俗学会では、乗り越える対象としての「20世紀民俗学」とは何だったのか?その可能性と問題点とは何か?それはこれから継承可能なのか?そして、それとの決別は可能なのか?といった問題を検討するために、「20世紀民俗学」の代表的論客である福田氏とオーディエンスとが議論する研究会を企画いたしました。
副題に「私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?」と題しました。「20世紀民俗学」から飛躍するには、これまで自らが意識せずに依って立ってきた、寄りかかってきた「20世紀民俗学」の根本―目的、方法、対象―を更改しなければなりません。それは、ことによっては「20世紀民俗学」を捨て去らなければならないほどの困難な作業です。
今回の企画は、「『20世紀民俗学』を意識的に継承する」という方向性と、「『20世紀民俗学』を捨てて新しい民俗学を構築する」という方向性との相克や軋轢を顕在化させることにより、民俗学の議論のステージを転換することを目的としています。
主催/共催:東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、現代民俗学会、女性民俗学研究会
問い合わせ先:参加自由です。質問は事前に募集いたします。下記をご覧ください。
お問い合わせは東京大学東洋文化研究所・菅豊(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/faculty/index.htmlに菅のメールアドレスが記載されています)までお願いいたします。
その他の情報:
福田アジオ氏への質問募集中!
本企画は講演会ではなく、福田アジオ氏と参加者、そして、参加者相互の討論を通じて、いままだ共有されていない困難さや問題点を洗い出し、自覚し、それを超克する作業の起点を創り上げるものです。そのため、事前に参加希望者から福田氏への質問や意見を募集します。
[応募方法]:事前の質問や意見のご応募は、当日参加なさる方に限らせていただきます。質問や意見を400字以内にまとめてslf.meeting6@gmail.com(専用アドレス:本アドレスは、研究会終了後、閉鎖されます)あてに7月7日(水)までにお送りください(名前・所属は必ずご記載ください)。ご応募いただいた質問や意見は、コーディネーターの方で整理し、応募者の名前を付記して現代民俗学会ホームページに掲載いたします。当日は、主として事前に公開された論点を中心に議論を進めます。なお質問・意見のとりまとめ、取捨選択、修正、当日の質問、議論の進行等についてはコーディネーターに一任させていただきます。

《討論》福田アジオを乗り越える―私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?―
日時:2010年7月31日(土)13:30~
場所:東京大学東洋文化研究所3階大会議室
登壇者:福田アジオ(神奈川大学外国語学部・教授)
コーディネーター・司会:菅豊(東京大学)、塚原伸治(筑波大学)
〔内容〕
現代民俗学とは「20世紀民俗学―これまでの民俗学」を乗り越える民俗学の流れです。ここでいう「20世紀民俗学」とは、20世紀に柳田国男たちによって始められた日本の土着文化の理解とその復興運動、そして、その学問化を進めた運動を指します。それは、ある時代の要請によって生成した「時代の産物」であり、当初は「野の学問」として出発し、100年近い時間の経過とともに体系化され、組織化され、そして制度化されました。この「20世紀民俗学」の成立の最終段階で、大きな役割を果たした民俗学者の一人に福田アジオ氏がいます。
いま私たちは現代民俗学を唱え、「20世紀民俗学」からの飛躍を試みようとしています。それは、福田氏、および同時代の人びとの学問を乗り越えることでもあります。今回、現代民俗学会では、乗り越える対象としての「20世紀民俗学」とは何だったのか?その可能性と問題点とは何か?それはこれから継承可能なのか?そして、それとの決別は可能なのか?といった問題を検討するために、「20世紀民俗学」の代表的論客である福田氏とオーディエンスとが議論する研究会を企画いたしました。
副題に「私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか?」と題しました。「20世紀民俗学」から飛躍するには、これまで自らが意識せずに依って立ってきた、寄りかかってきた「20世紀民俗学」の根本―目的、方法、対象―を更改しなければなりません。それは、ことによっては「20世紀民俗学」を捨て去らなければならないほどの困難な作業です。
今回の企画は、「『20世紀民俗学』を意識的に継承する」という方向性と、「『20世紀民俗学』を捨てて新しい民俗学を構築する」という方向性との相克や軋轢を顕在化させることにより、民俗学の議論のステージを転換することを目的としています。
主催/共催:東京大学東洋文化研究所班研究「東アジアにおける「民俗学」の方法的課題」研究会、現代民俗学会、女性民俗学研究会
問い合わせ先:参加自由です。質問は事前に募集いたします。下記をご覧ください。
お問い合わせは東京大学東洋文化研究所・菅豊(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/faculty/index.htmlに菅のメールアドレスが記載されています)までお願いいたします。
その他の情報:
福田アジオ氏への質問募集中!
本企画は講演会ではなく、福田アジオ氏と参加者、そして、参加者相互の討論を通じて、いままだ共有されていない困難さや問題点を洗い出し、自覚し、それを超克する作業の起点を創り上げるものです。そのため、事前に参加希望者から福田氏への質問や意見を募集します。
[応募方法]:事前の質問や意見のご応募は、当日参加なさる方に限らせていただきます。質問や意見を400字以内にまとめてslf.meeting6@gmail.com(専用アドレス:本アドレスは、研究会終了後、閉鎖されます)あてに7月7日(水)までにお送りください(名前・所属は必ずご記載ください)。ご応募いただいた質問や意見は、コーディネーターの方で整理し、応募者の名前を付記して現代民俗学会ホームページに掲載いたします。当日は、主として事前に公開された論点を中心に議論を進めます。なお質問・意見のとりまとめ、取捨選択、修正、当日の質問、議論の進行等についてはコーディネーターに一任させていただきます。
論文でました:「被置換了的森林―政治以及社会対日本信仰空間的影響」『文化遺産』2010年第2期(総第11期)(中山大学、2010.4.20) ― 2010年07月07日
「被置換了的森林―政治以及社会対日本信仰空間的影響」『文化遺産』2010年第2期(総第11期)(中山大学、2010.4.20)pp.124-129発表しました。4月に公刊されていた雑誌がようやく届きました。
明治神宮の森が、民間信仰の空間から国家宗教の空間に置き換えられ、さらに現在は「環境」というイデオロギーで評価される空間にすり替えられている様相と、政治的な動きについて分析しました。かつて国民統合の目的で政治的に構築された森は、いま環境保護思想の影響下で、さらに政治的、経済的に構築されています。
明治神宮の森が、民間信仰の空間から国家宗教の空間に置き換えられ、さらに現在は「環境」というイデオロギーで評価される空間にすり替えられている様相と、政治的な動きについて分析しました。かつて国民統合の目的で政治的に構築された森は、いま環境保護思想の影響下で、さらに政治的、経済的に構築されています。

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